陣場台熱球録 web版 その24

  昭和16年(1941)は前年のレギュラーが7人残り、主戦の田頭投手も好調を維持し誰もが連覇を信じて疑わなかった。6月早々に行われた、県下選抜大会でも好成績を収め優勝候補の本命と目された。
 しかし戦局は次第に悪化し、7月21日に27回大会の中止が文部省より伝えられた。全国各地を見れば既に代表が決定している地域もあった。福中選手、関係者の落胆は計り知れないものがあった。
 この年は、春早々から明治大学の藤本英雄投手を招いて指導を受けていた。藤本投手は巨人軍に進み、当時の藤本監督が「プロ野球」の選手が「学生選手」に押さえられるのは恥だということで、投球練習無しでマウンドに登らせたという伝説の投手である。その不利な条件にもかかわらず、入団早々に最多勝を獲得している。昭和25年には、プロ野球史上初の完全試合を成し遂げた大投手である。



(藤本投手との記念写真。昭和16年春、盛岡商業校庭で)

 中止が決定されて以降、いつ再開されるともわからない大会ではあったが、福中選手は野球の練習を続けていた。八戸中学との定期戦、各地へ遠征しての練習試合など、来るべき再開に向けて練習に励む。敵性スポーツということで野球を取り巻く環境は悪化する一方だったが、「体を鍛える」などと理由をつけて練習に励んだ。

  昭和17年(1942)には、一関中学から練習試合の申し込みがあり、軍事訓練の一環ということにして花巻まで遠征した。不便な時代ではあったが、関係者は苦心して練習試合を組み道具を確保した。 この状況は終戦まで続くのである。

 なお、奥羽大会の優勝旗は昭和15年に優勝した本校に大会復活の昭和21年まで保管されていた。




(昭和18年の野球部員。奥羽大会優勝旗をバックに撮影)
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