陣場台熱球録 web版 その20

 昭和2年に甲子園初出場を果たした福岡中学野球部は昭和4年まで3年連続甲子園出場を果たし、昭和5年も東北大会決勝で敗れたが、翌昭和6年には4度目の甲子園出場を果たした。

 石原事件は昭和6年夏の岩手県大会準決勝で起きた。準決勝は福岡中対遠野中の対戦となった。創立は共に明治34年。伝統ある兄弟校同士の初めての対戦である。
この年の4月、遠野中学に埼玉県川越中学から石原繁三が転校してきた。千葉県成田出身の石原は、昭和5年秋の北関東大会で川越中学の快進撃を支え注目された選手であった。

 それまでは野球に関しては注目されなかった遠野中学であったが石原の転校で状況が一変した。石原の豪腕はにより遠野中学は一躍優勝候補と目されるようになった。

盛岡中学校庭を舞台に開催された岩手県大会準決勝の試合開始前に事件は起きた。

「転校間もない石原投手は、この大会に出ることができないのではないか」と福岡中学中津川コーチが大会関係者に異議を唱えた。中津川コーチの異議を受けて、審判、大会役員、両校関係者も含めて協議が行われた。石原投手の出場が認められそうになると中津川コーチが猛烈に抗議し、石原投手の出場資格無しの結論が出そうになると遠野中学関係者が猛烈に抗議した。試合開始前の協議は2時間近くにも及び、石原投手は昭和6年夏の大会には出場資格が無いという結論で試合は開始された。

この時代は、全国各地で独自な野球大会が10ほど開催されていた。野球人気に目をつけた興行師が、中学校野球を利用する傾向が強く、勝つためには有力選手を金で転校させる例が目立ち各地で問題化していた。このため、翌7年から文部省主管の大会となり試合の主催権、選手資格などが細かく規制された。

石原投手が金で転校したわけではないが、そういった時代背景もあり中津川コーチの執拗な抗議が続いたと思われる。石原投手が出場できないとなると当然遠野中ナインの士気は下がる。試合は一方的に福中が打ちまくり20−0の大差で福中の勝利となった。

その試合を戦った小田野柏(昭和10年卒・阪急、高橋球団などプロ野球選手)は語る。

「石原投手が出てきたならば試合はどうなっていたかわからない。福中も小野投手が好調だったので接戦になったことは間違いない。印象的だったのは、試合の後半に遠野の選手が泣きながらプレイをしていたことだった。後年プロ野球で見た石原投手は球も速く、弱小球団の中で孤軍奮闘という感じだった。プロでも味方打線がもっと打ってくれれば相当の勝ち星を挙げたと思う」

この年の福中は、奥羽大会も勝ち抜き4回目の甲子園出場を果たした。

明けた昭和7年、遠野中学は満を持して石原投手をマウンドに送った。県大会の決勝戦こそ盛岡中学に敗れたが、福島市で開催された東北大会は圧倒的な強さで大会を制し初めての甲子園出場を果たした。

昭和6年の事件以降、遠野中学は福岡中学との対戦となると闘志を剥き出しにして挑むようになる。昭和8年、昭和11年、昭和12年といずれも福中を僅差で下した。平成16年までの通算成績も福岡の6勝で遠野の5勝と拮抗している。甲子園出場回数が10回と2回(遠野は選抜に1回出場)の事を考えれば、遠野野球部がいかに福岡戦に闘志を持って対戦したかがわかる。

石原投手は昭和11年に東京セネタースに入団。その当時のセネタースには川越中学で一緒に野球をやった仲間が多く在籍していた。昭和17年までの6シーズンで124試合に登板し通算31勝42敗6引き分け、48完投、防御率は2.40。昭和17年のシーズンには20勝26敗を記録した。この年の防御率は1.06。この年に在籍した「大和」球団は打率0.186の貧打線であった。

応召されて戦地に赴き戦後に帰還。下関港に降り立ったところで病に倒れ、わずか三日後に急死。戦争の犠牲になった悲劇の名選手である。


(昭和11年東京セネタース選手。前列向かって左端が石原繁三)

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