陣場台熱球録 web版 その19

 大正15年(1926)12月25日大正天皇が崩御された。時代は大正から昭和へと変わる。新しい時代は「H」のユニフォームと共に、福陵野球が全国の檜舞台立つ瞬間でもあった。大正15年(昭和元年)から昭和2年(1927)にかけての冬期練習は講堂で行われた。柔軟体操、基本的な練習から守備のトリックプレイなど、天知氏から指導された総合練習をこなすうちに、選手の間には早くグランドに出て実践的な練習をしたいという気持ちがわいてきた。昭和2年(1927)3月も中旬を過ぎると、選手一同スコップを持ってグランドの土を掘り、それを積もった雪の上に撒き散らした。そのために思ったよりも早く雪が消え、3月22日からグランドに出て練習を開始した。

 7月初旬には、明治大学から永沢次郎選手を迎えてコーチを受けた。善導寺住職の好意により、善導寺に泊まりがけで合宿訓練行うことができた。合宿は大正期の末から必要性が叫ばれていたが、この時に初めて実現したのだった。

 7月28日には第13回東北大会に向けて出発した。東北大会は盛岡中学を舞台に15校が参加して行われた。岩手県で行われた初めての予選であった。

1回戦 不戦勝
2回戦 16−1東北学院
3回戦 6−1岩手師範
準決勝 13−1仙台商業
決勝  1−0盛岡中学

 8月3日の決勝戦では、宿敵の盛岡中学を三度目にして降し栄冠を勝ち取った。決勝戦には、明治大学の井野川捕手がベンチコーチに、対する盛岡中学は早稲田大学の源川投手がベンチコーチとなり、早明戦の地方版という雰囲気であった。

 試合は、両チームの投手が素晴らしいピッチングを見せて最小得点で決着する展開となった。盛岡は二回に好機をつかんだが、福岡右翼辻村から二塁手小坂、そして捕手の村田への中継がこれ以上ない好返球となりチャンスをつぶした。九回も先頭打者が右翼前ヒットで出塁したが二塁盗塁に失敗しチャンスを逃す。福中・戸来投手の前に安打5本、三振8個。

 対する福中打線は盛岡中学エース山田投手の前に沈黙した。延長12回までノーヒットに抑え込まれる。十三回一死から、三番打者の佐藤がこの試合唯一の右前安打で出塁。四番・久保田は一塁へのファールフライで二死。五番・戸来はショートゴロで万事窮すと思われたが遊撃手と一塁手のエラーとなり、一塁ランナーの佐藤が生還し1点を挙げた。

 戸来投手は十三回裏の盛岡中学の攻撃を三者凡退に切り抜けた。福中打線は安打1本、三振9個であったが、鉄壁の守備陣と佐藤選手の好走塁で勝利を収めた。決勝戦の経過から見て一安打のみで勝ち得たことは幸運であった。それほど盛岡中学の山田投手は素晴らしい投球であった。宿敵の盛岡中を三度目で降した福中の、汗と血の結晶で勝ち取った「優勝」という栄誉はまさに誇りである。

 優勝旗をかざして終列車で帰校。福岡駅前は熱狂する関係者の姿があった。校長をはじめとする諸先生方、生徒、町の有志など物凄い人波だった。福岡駅頭から堀野まで優勝を歓迎する提灯行列。選手は汚れたユニフォーム姿を誇りに、応援団幹事と共に数台の自動車に分乗して行進。沿道には「祝優勝」の提灯が提げられ、生徒は数百メートルごとに「凱歌」でストームを組んだ。絶大な拍手に送られ、選手は新たに優勝の喜びを噛み締めたのであった。

  89日福岡駅頭で甲子園大会へ向けての壮行式が催され、校長を初め多数の関係者、町内の有志、応援団リーダーの指揮による「遠征歌」に見送られて全国大会に向かった。

(甲子園に向けて出発する野球部員)

全国大会でも天知俊一氏と西野末雄氏の御好意で鳴尾に宿を取った。天知氏には大会中における万事をお願いしたところ、快く引き受けてくださり、練習場の手配、甲子園球場での諸注意、対戦相手の特徴まで教えてくれた。また、ベンチコーチとして選手と共に行動してくださることになり選手一同は非常に心強く思った。安達部長は、風呂からの帰りには西尾末雄氏が経営する「みやこ亭」に立ち寄り雑談して帰るようになり、その縁もあってか西野氏は福中選手には非常に好意を持つようになった。

 ある日、安達部長は西野氏から一人の運動記者を紹介された。この運動記者は、「みやこ亭」の離れを借りて仕事をしていた。休息のために茶の間に来ていて安達部長と顔があった。

部長 
「こんど初めて甲子園出場の福岡中学の野球部長です。よろしく」

記者
「おめでとう。甲子園での健闘をお祈りします。福岡とは九州ですか」

部長
「岩手の北端、盛岡より北に80kmの僻地にある小さな中学校です」


記者 
「そうですか。貴校野球部が歴史有る盛岡中学に勝ったことは並大抵の努力ではなかったことと思いますが、どのようにして彼らに勝る方法とられたのか」


部長 
「自分は野球知識もないし、従って技術方面についても全くの素人ですが、自分は学生スポーツを人生修行の一助と考え,人間を造るに有るとの信念から選手諸君に不平不満なく、苦難、苦行を続けさせましてグランドで汗と血との努力の結晶です」

記者 
「そうですか。充分苦労されたことでしょう」

 この運動記者は飛田穂洲氏であった。氏は学生野球の先達、野球評論の大家として永年中等学校優勝野球大会の実況を記事として報道していた。この時の安達部長との会話で意気投合し、安達部長が「みやこ亭」を訪れるたびに離れ座敷から出てこられるほどの仲になった。

  そんな関係から福中には大変な関心を持ってくださり、福中選手も期待に応えて桐生中学を4−1で破り準々決勝に駒を進めた。準々決勝の相手は優勝候補筆頭の高松商業だった。この高松商業との一戦では我が国野球史上初めての敬遠満塁策を成功させ、延長十二回0−1で惜敗した。その奮闘ぶりを讃えて朝日新聞の運動記事紙面一面に、戦況と賛辞を掲載し一躍全国に福岡中学の名声が広がったのである。

1回戦 不戦勝
2回戦 4−1桐生中学
準々決勝0−1高松商業(延長12回)

(満塁策成功! 村田捕手が中腰になっているのがわかる)

(満塁策が成功した瞬間の観客。万雷の拍手が湧き起こった)

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