陣場台熱球録 web版 その18

 福中のエース投手として活躍した中津川昇二選手は、大正15年(1926)3月に福中を卒業後、明治大学に進学し野球部に席を置いていた。7月には後輩のコーチとして福中にやって来ることになっていたが、急用で果たせなくなった。そこで明治大学の先輩である天知俊一氏に事情を話したところ、快く福中のコーチ役を引き受けてくれることになった。
 福中の昆徳治監督は、練習試合から選手全員の長短所を見て貰いたいとの考えから7月4日に盛岡中学との練習試合を組んだ。そして、天知氏には4日の朝に盛岡に着くようにお願いした。練習前のミーティングから戦法まで天知氏の指導で試合に挑んだ。試合は0−1で惜敗したが、試合の運び方、選手に対する采配などベンチの重要さを再認識させられた。

 翌7月5日、天知氏の指揮で練習が始まった。前日の盛岡での欠点をどしどし指摘矯正し、最初はバッテリー、続いて各ポジションにつき個人的に懇切丁寧に教えてくれた。天知氏のコーチは懇切丁寧であり、一言一句ただならぬ気合いを込めて納得いくまで動作で示した。野球は科学的に、そして普段の修練はおこたってはならないと何度も選手に言い聞かせた。そのコーチングに選手も天知氏をすっかり信頼した。

天知俊一は明治37年(1903)年12月20日に兵庫県で生まれた。東京の攻玉社中学などで活躍したが甲子園への出場経験はない。大正11年に明治大学に進学し、捕手として活躍した。明治大学に入学するまでの経緯が、現在では考えられないほど波乱に富んでいる。天知は最初に甲陽中学(兵庫県)に入学した。ここに2年間在籍した後に東京の攻玉社中学に転校した。転校した年に甲陽中学は全国制覇を成し遂げた。攻玉社中学を1年で終了し(旧制中学3年)明治大学へ進学した。旧制の学制では5年修了か4年修了で旧制高校の予科か大学の予科に合格すれば進学ができたが、中学3年修了では進学はできない。半年間は野球部に在籍したが、中学の修了証書がどうしても提出されないために、再度中学に入り直す事になった。その時に指定されたのが栃木県の下野中学(現作新学院)である。

 大正11年秋には、悪びれることなく下野中学に通い始めた。この時に同じく攻玉社中学3年修了で明治大学に進んだ中川金三も下野中学に転校させられた。下野中学には後に福中から明治大学に進んで活躍する中津川昇二投手も在学していた。大正12年、下野中学で天知と中川はバッテリーを組み快進撃を見せた。ところが、7月になると明治大学から再び呼び戻された。中学4年を修了したから入学を許可すると言うことであった。

 天知が明治大学に在学中に、明治大学野球部は2度アメリカ遠征を行っている。そこで高度な野球を観察する。とくに自分のポジションである捕手の重要性を認識した。福中の村田栄三に授けた敬遠満塁作も、この時のアメリカ遠征で見聞した物だった。後に魔球と呼ばれたフォークボールを知ったのもこの時で、明治大学の後輩である杉下茂に授けた。

 大学卒業後には、大毎野球団に参加した。この大毎野球団は、本来であれば我が国最初のプロ球団になるはずだった。ところが、当時は学生野球が花盛りでプロ野球が「商売人野球」と蔑まれていた時代背景もあり、親会社の毎日新聞社は「非プロ」を宣言してしまった。

 戦後は、中日ドラゴンズの監督に就任した。特に昭和29年(1954)には、自らフォークボールを伝授した大エース杉下茂を擁して、日本一に輝いている。プロ野球の経験が無しでの監督就任も異例だが、その監督が日本一まで登り詰めたのは異例である。打倒巨人軍に執念を燃やした天知は、優勝が決まった瞬間に人目もはばからず号泣し「涙の優勝」と呼ばれた。巨人軍V9時代の名参謀・牧野茂を見いだしたのも天知であった。

 戦後も福中の教え子である村田栄三をコーチングスタッフとして迎えようと考え、何度か村田栄三に打診をしたが実現しなかった。その後、毎日新聞の野球解説者などを努め、昭和45年(1970)には野球の殿堂入りを果たした。昭和51年(1976)3月12日逝去。

当時の人気雑誌「野球界の表紙を飾った天知俊一と中津川昇二(大正15年3月福中卒)

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