陣場台熱球録 web版 その16

 大正10年頃までは、正式な組織としての応援団というものは存在しなかった。対外試合の度に有志が臨時で応援団組織していたようだ。大正11年(1921)に盛岡中学で応援団というものが組織されるという噂を生徒の誰かが聞いてきた。この年の春には前年に北海中学に転校した内村一三も帰省し、札幌方面での野球応援合戦(北海道大学対小樽高商の定期戦など)の華やかなことを伝えた。ならば福中でもつくってやるとなり、団長に桝田亀次郎を選出し、内藤次郎、坂下貞吉などの有志で応援団幹事会というものを組織し学校当局にかけあったが結局は公認されなかった。正式な公認は大正12年を待たなければならないが、この事をもって正式な応援団の結成としたい。

 大正12年(1923)に福中野球部は甲子園大会の予選に出場することとなった。そこで野球部の必勝を祈願し応援団組織が学校当局から正式に認可された。大正12年度の応援団長は野球部と柔道部に所属している山岡米蔵であった。甲子園予選は締め切り後の申し込みとなり出場できなかった。教師の小野二郎が朝日新聞の東京本社を訪問して参加を打診してもどうにもなない。どうしてもあきらめきれない部員は、校長を説得して仙台・一関遠征をしながら東北予選を見学する。その遠征の際、山岡は壮行の指揮をとる。大正12年7月30日の事である。山岡自身は遠征に加わることはなかった。

 福中に野球熱が盛り上がるにしたがって、学校当局も応援団組織を公認するようになった。大正12年(1923)12月には、再び内村一三(後の県議会議長)が帰省してきた。当時福中野球部の二塁手として活躍していた昆徳治に、福中にも応援団を組織して応援歌などを作って応援したら野球部員の意気も高揚するのでないかと相談があった。既に福中でも応援団組織はそれなりに整えられていたが、応援歌などは一部の生徒しか歌うことができなかった。昆徳治は、野球部の同級生である高畑久次郎、剣道部の猛者吉田道三、原田清志などに相談した。この年の夏には応援団組織が、正式に学校公認となり生徒間にも応援歌を制定する機運が盛り上がっていた。下仲町の高畑商店に、内村、昆、高畑、原田、卒業したばかりの内藤次郎などが集まり応援歌の作詞に着手した。内藤はバイオリンやハーモニカの名手であり、応援歌の元歌のメロディーを演奏するのに活躍した。

 大正13年(1924)3月には、全校生徒を講堂に集め新しくできた応援歌の披露を行った。新入生の加わった4月には、放課後に校庭で猛練習をし5月の八戸中学との定期戦では応援の効果で圧勝。応援団の応援ぶりを見ようと、校庭に地域の住民がつめかけてたいへんな盛り上がりであった。この年の5月には団旗もつくられた。

 この頃に応援ユニフォームとして、赤の燕尾服のようなものを新調した。その件で学校当局とのいざこざもあったようだが、応援風景は町の名物となり多くの地域住民も応援を見るために福中グランドまで足を運ぶようになる。

 大正12年12月、福岡町下町高畑商店(日光屋)蚕乾燥場二階にて、高畑福次郎、高畑久次郎、昆徳治、内村一三、内藤次郎が集まり、応援歌その他を作詞・作曲して野球部を盛り上げようではないかとの相談が起こり、大正13年にはその実行がなされたが、第一に応援歌の作詞・作曲をせねばならないので、諸氏により多くの応援歌が作られた。 そこで全校生徒の間では、急に節度ある応援団を結成して応援歌の練習に取りかかったのである。

 以後盛んに歌われ、応援して、遠征の時には駅前広場おいて激励し選手を鼓舞したのであった。 その甲斐あってか、後に優勝の運びとなりこれが福中黄金期の基をなさしたと言ってもよい。これより以前は、奥健三氏の作られたわずかの応援歌しかなかったので、急に多くの応援歌が広くグランドに響き渡るようになったのもこの頃からである。

・・・中略・・・

 私は作って最も思い出深く今なお印象に残っているのは「偉人の生地」である。これは大正14年の冬休暇で東京から帰郷したときに、友人昆徳治君の要請もあり、佐藤旅館の裏二階で助手として、辞典をひいて貰いながら福中魂を込めてとの要望に応えたつもりで作ったものだ。曲は友人内藤次郎君、昆徳治君と共にバイオリン、ハーモニカ等でやった。現地福高グランドから練習している時、時たま町まで応援歌、特に「偉人の生地」の声が響いてくると当時二十歳頃を回想して感慨つきないものがある。

 今も想い出すことは、応援歌ができあがるまでの先輩や友人との談合である。夜まで及ぶ談論つきず、先ず小使い役を決め、あり合わせの小銭を集めて馬肉を食べながら意気を示したのであった。集まる面々は内藤正介、高畑福次郎、内藤次郎、内村一三、高畑久次郎(第三代団長)、昆徳治、原田清志などであった。あまり遅くまで騒いでいると、国香医院の老先生から火が危ないと言って大目玉を食ったことも昔の想い出である。こうした愛校精神の下に、応援歌が曲がりなりにもできて全校に普及したのだった。

 そして、幾多の名選手も輩出されて皆涙ながらに校歌や応援歌を歌い続けて上級学校へ、社会へと巣立っていったわけである。感慨はつきない

(内村一三の回想文)




大正13年応援団幹事



大正12年3月卒業生・後列右から3人目が桝田亀次郎

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