陣場台熱球録 web版 その15

 大正13年(1924)夏、小向八郎は仙台高工野球部の夏期合宿を兼ねて来福した。合宿場所は、裁判所通りの沢藤倉治宅の新築したばかりの家を借用した。この合宿は福中野球部の指導も兼ね、午前、午後と猛練習を実行した。その指導は非常に効果的だった。野球知識の必要性を説き、「野球セオリー」をミーティングのたびに講義し、福中野球部員も筆記し勉強に励んだ。こうして野球知識も広がり技術も向上し、いよいよ7月31日から行われる東北大会に挑んだ。大会は仙台市の東北体育球場で、東京朝日新聞社の主催・第二高等学校の後援で行われた。参加24校で決勝戦は秋田中学が米沢中学を18−6で破って優勝し全国大会に駒を進めた。福中は1回戦不戦勝の後、8月3日に一関中学と対戦し3−9で敗れた。

 大正14年(1925)の第11回大会では、参加校の激増と地理的な関係上東北大会から青森、秋田、山形を分離し奥羽大会を新設した。東北大会は岩手、宮城、福島で争われ、東京朝日新聞の主催、二高後援で8月3日から9日まで仙台市の東北体協球場で行われた。東北大会参加校は19校で、福中野球部は東北大会ベスト4に進出し「福中強し」との声を聞くようなった。ベスト4進出の立役者、中津川昇二と小坂国夫のバッテリーは、関東以北最大のバッテリーと噂され一躍優勝候補と目されたが、経験の差とでもいうべきか準決勝で盛岡中学に2−5で敗れた。前年秋に行われた盛岡中学との練習試合に開校以来初めて勝利し、今度こそは勝てるという思いで盛岡中学に挑んだが跳ね返された。しかし将来に希望を抱くベスト4進出であった。

大正15年の第12回大会は7月27日から福島高商球場で18校の参加で行われた。

◎一回戦は不戦勝

◎二回戦 3−2仙台二中(投手・戸来・捕手・村田)

◎三回戦 16−1盛岡商業 7回コールド  (投手・戸来 捕手・村田)

◎準決勝 2−1福島商業 延長12回 (投手・戸来 捕手・村田)

◎決勝  1−3盛岡中学

 準決勝は8月3日に行われた。福島商業と延長12回の死闘を演じて勝利。この勢いで盛岡との決勝戦に勝利しようと、意気高揚、一通りの注意と作戦を終わり早めに睡眠した。明けて8月4日午後1時、山岡球審の宣告で試合が始まった。先攻は福中。初回から福中打線は盛岡中学の山田投手に襲いかかり、4回までに3点を挙げた。しかし、2回ころから空模様がおかしくなった。3回頃から小雨が降り出し5回に入ろうとした時に大雨となり、30分の中断の後ノーゲームが宣告された。

 決勝再試合は8月5日に行われた。決勝戦の試合経過は、両軍3回まで好守し得点なし。盛岡は4回、福岡の戸来投手から4連続四球を選んで先制。福岡は5回、1安打と相手エラーで1点をあげ追いついた。盛岡は7回、2つの四球と福岡のエラーで1点、続く4番打者の右越安打でさらに1点をあげる。福岡の8回、9回の反撃もむなしく1−3の惜敗となる。選手は試合が終わるとグランドに座り込み泣き続けた。昆監督や安達部長が選手をなだめ、やっと宿舎に帰った。

大正15年夏の決勝戦で敗れ、宿舎で休んでいると優勝した盛岡中学が校歌を歌いながら通り過ぎていった。悔しくて悔しくて仕方がなかった。その時の安達部長の言葉を今でもはっきり覚えている。

「諸君の悔しい気持ちは察して余りある。幸運にも来年夏の東北大会は盛岡中学を会場に行われる。その敵陣で今年の雪辱を果たしたならば、まさに男子の本懐である。来年に向けて一層の練習に励もうではないか」と安達部長が仰ってくださった。

 次の年には、初回のピンチを凌ぎ延長戦で1−0と最少得点で盛岡中学に勝つことができた。その時の感激は80年近く経った今でも忘れない。(平成18年11月・村田栄三談)



盛岡中学の山田投手。福中の前に立ちはだかった



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