陣場台熱球録 web版 その6

 記録に残る最初の試合は明治35年(1902)7月の八戸遠征で戦績は不明だが大敗だったらしい。翌明治36年(1903)5月29日には、福中グランドにおいて八戸中学(当時は青森二中)と対戦し2−7で敗れる。明治37年(1904)5月には八戸遠征をし、この試合で6−42という大敗を喫した。引率の緒方教諭が責任を取って丸坊主となった。この試合は岩手日報にも、「ベースボール競争 前日曜日、当中学校生徒緒方教諭引率の下に八戸に於いて同校生徒と其技を競いしが遂に30点の敗を取り帰校せり」と書かれている。明治37年(1904)10月には、福中グランドで盛岡中学と青森二中(八戸中学)が練習試合をした記録もある。

 それから2年後の明治39年(1906)にも八戸で試合が行われた。よほど明治37年(1904)に42点取られた試合が悔しかったらしく、猛練習を積んで試合に挑んだ。この際に最初の応援歌が即席でつくられる。メロディーは当時の流行歌「アムール川の流血」から拝借した。試合はまたしても敗戦だった。

 秋田県の強豪大館中学が、岩手県にその相手を求めて遠征することになった。明治42年(1909)のことである。この時の大館中学は、当時「全国の三傑」と呼ばれ東北球界では無敵を誇っていた盛岡中学を唯一破ったチームであった 福中にも試合の申し込みがあり、天下の強豪校を迎えるとあって対策を考えた。盛岡中学出身で早稲田大学に進んでいた野々村納氏を臨時コーチに招き本格的な練習をして試合に備えることとなった。8月に対戦した大館中学との試合は2−5で敗れたが、天下の強豪校と互角の試合ができたと言うことで選手の自信につながった。

 野々村納氏は、明治37年(1904)から盛岡中学の投手として活躍した人物である。当時、盛岡中学が対戦した八戸中学、大館中学、遠野中学、仙台二中などをことごとく撃破した岩手県球史に残る名選手で、盛岡中学卒業後は早稲田大学に進み遊撃手として活躍した。

 
明治43年(1910)8月には早稲田大学二軍が東北・北海道遠征を企てていることを知り、野々村納氏を通して練習試合を申し込んだ。試合は0−14で大敗した。この時には、OBチームの「形水クラブ」も挑戦したが3−8で敗れた。「形水クラブ」は、2日後に行われた盛岡中学の試合では1−19で大敗。それほど当時の盛岡中学は強かった。


明治42年の福中野球部員。野々村氏を囲んでと裏書きされている


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