日本航空界を指導したサムライ 田中舘愛橘

 
 明治42年12月9日、我が国発の滑空飛行に挑んだ日仏3人のサムライがいた。日本に飛行機という概念の無かった時代である。上野の不忍池上空を飛んだ滑空機は一般庶民の度肝を抜いた。

 軍人の相原四郎中尉、フランス海軍中尉のル・プリウール、そしてもう一人が我らがヒーローの田中舘愛橘である。

  田中舘愛橘博士は、岩手県二戸郡福岡(現二戸市)出身の物理学者で、当時我が国の航空界の権威者である。博士の先祖は浄法寺畠山氏の家臣であり、陸奥国浄法寺で50石を領していた。本姓は小笠原と伝えられている。実は、みちのく記念館(ライダーズハウス愛輪塾)と直線距離で数百メートルの距離に「先祖の居住地」がある。

 田中舘博士の業績は数々あり、あまりにも多岐にわたっている。その教え子も日本の物理学を語る上で欠かすことのできない人物ばかりである。

 この時の滑空実験は数回実施されたらしい。多くの新聞社も取材し報道したようだが、どうしたわけかこの時の実験は日本人のほとんどが知らない事実である。フランスでは、「日本の最初の滑空飛行」といえば多くの人が明治42年に行われた実験を指しているらしい。最初に成功したのがル・プリウールだったのが理由とは考えたくはないが、結果を重視し課程を評価しない国民性にあるのかもしれない。

 ル・プリウールという日本贔屓の青年と、相原四郎という実行型の軍人、何よりも田中舘愛橘という純真で真摯な学者がいなければ、日本の航空学は基礎を築かないままに輸入機による飛行時代に突入したのかもしれない。

 「何が無くて困る。これが無くて困る。あるだけの材料でできるだけの結果を出せ」が、博士のモットーであった。

 「手に入る材料だけで何とかやりくりして創り出すこと」が、ル・プリウールのモットーであった。

 「自分で体験してこそ本物」が、相原四郎のモットーであった。

 彼らから、我々が学ぶべき事は創造(想像)の精神なのかもしれない。


(ル・プリウール中尉とグライダー)


(大正5年頃の田中舘愛橘博士)

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