浜の人気者 欠端光則

 
 現在、二戸地方の出身者で一番知られている人物の一人が欠端光則氏である。二戸市米沢の出身。米沢小学校、福岡中学校から福岡高校に進み、昭和55年夏の甲子園大会には福岡高校のエースとして出場した。
 その年のドラフト会議でロッテ球団に3位で指名されプロ野球の世界に飛び込んだ。中学校時代からその素質は注目され、東北高校や仙台育英高校からも誘われた。しかし、「H」のユニフォームに憧れ福岡高校に進み、1年生でレギュラーの座をつかんだ。まずは、昭和62年にベースボールマガジン社から発行され新プロ野球人国記」に書かれた文章を紹介しながら、欠端投手の足跡を振り返ってみたい。

・・・プロ野球50年の歴史の中で初めての姓の選手だ。欠端光則がプロ入りした頃「ケッタン」と呼ばれ、それがそのまま愛称になったりもした。ウエストなみのガッシリした太もも、右60キロ、左58キロという握力、白い肌、のっそりした歩き方から「ケッタン」は「白熊クン」となってそらっとぼけた言動でロッテでも、大洋に移ってからも人気者だ。プロ初勝利が広岡監督で初優勝した年の西武相手で被安打3の完封勝ち。以後大洋にきて今度は‘カープ・キラー’になるのだから確かに愉快な投手だ。
 ・・・欠端は昭和55年夏の甲子園大会に出ている。当時の東北ナンバーワンといわれた右腕からの速球で、母校・福岡高校は19年ぶりの甲子園出場だった。話題になったのはそのユニフォームとスタンドの応援風景だった。単純だけれどもインパクトに残る「H」のユニフォームはもちろんだが、ボロボロの学帽、柔道着にハカマ、下駄履きに男子生徒の丸坊主・・・・戦前からのスタイルそのままの応援。相手の大分商業がチアガールをくりだしての応援だったからよけいに際だって見えた。

 ・・・・・欠端が県代表になったときの岩手県予選でもそうだが、福岡高校の応援団リーダー達は二戸から盛岡のグランドまで25時間かかって「80キロ行軍」をやってのけた。欠端にも当然そういったバンカラ精神は植え付けられている。
欠端が盛岡に来る・・・・・・・・というと、二戸からバスを何台も連ねて欠端応援団がかけつける。昭和60年7月10日の大洋-広島戦では親類だけで30人を超え、二戸から欠端みたさに集まったのは300人を超したといわれた。近所の人たちは、欠端が「勝利投手になるたびにお酒を手に持って家に集まってくれ、握手また握手です。ありがたいことです」と母親は声を潤ませる。

プロ野球でも投手として活躍したために、多くの人たちは高校時代からエースだったように思うが実は二番手投手だった。同学年に好投手・下村俊哉がいたために同級生からするとエース欠端という感覚はない。むしろ守備範囲の広い遊撃手というイメージがある。人より5歩ぐらい後方で守り、その大きな体からは想像もできない機敏な動きと打球を捕ってからの矢のような送球で観客を沸かせた。
 高校2年の夏の大会では、故障した下村投手にかわって岩手県大会の決勝までマウンドを守った。決勝戦でも3点に抑える好投をしたが、味方打線の援護が無く惜敗した。
 秋の新人戦からはエースの下村投手が復調し遊撃手に回った。春の選抜をかけた秋季東北大会の準決勝の秋田商業戦にリリーフ投手として登板しサヨナラヒットを打たれ敗戦投手。この後は黙々と走り込む欠端選手の姿があった。
 最高学年となった昭和55年は、エースナンバーをつけた下村投手が本来の投球ができず不振に喘いでいた。代わってマウンドに立ったのは欠端投手であった。
夏の県大会でも好投を続け、母校を19年ぶり9回目の甲子園大会に導いた。甲子園大会では、打ち取った打球が野手の間に落ちる不運なヒットで2−4と敗れ初戦で姿を消した。

その年の秋にロッテ球団にドラフト3位で指名されて入団。当時の稲尾監督に早くからその素質を見いだされた。「肘の使い方が芸術的だ」と、西鉄ライオンズで‘神様!仏様!稲尾様!’と呼ばれた大選手に言わせた素質だった。
 プロ入り2年目の昭和57年6月5日、黄金時代を築きつつあった西武ライオンズから完投でプロ初勝利を挙げた。昭和59年に大洋ホエールズに移籍、当時全盛を誇った広島東洋カープにめっぽう強く「カープキラー」の異名をとった。昭和63年と平成元年には開幕投手を務め見事勝利で飾っている。
 肘の故障で平成6年限りで現役を引退した。実働12年間の成績は、351試合に登板、5771敗、20セーブだった。引退後も横浜球団に残り広報として活躍している。現在は横浜市在住で、シーズンオフになると地元二戸市に帰り「野球教室」を開催している。




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